アメリカに来てから、麻子はあまり男性と付き合うことはしなかった。
麻子は日本人にしては上背もあるし、目鼻立ちがはっきりとしているのだから、ちょっと洒落た良い服でも着て街を歩けば、アメリカのことだから必ず声を掛けてくる男はいるはずだが、ただどうも昔からハリウッド映画に出てくるような、美い男の白人男性には興味がわかなかったのと、異国の地に来て、もし自分を安売りしてしまって、目的を達成出来ずじまいに終わっては元も子もないので、こと恋愛に関しては自分の方から億劫になっていた。
勿論在学中にキャンパスで知り合った男性に、何度かデートに誘われたこともあったが、そのつど相手を傷つけることなく、奇麗に相手のアタックをかわしてきたのだから、逆にいえば麻子には男を手玉に取るくらいの器量も備わっていたのかもしれない。
そんなふうに6年間も目的のため、路を踏み外さないために、一途に自制の生き方を貫いてきた麻子だったが、何故か礼一に対しては初めて会った瞬間から、心の底でそれまで大切に包んでしまっておいたものが弾けるような気持ちを感じていた。
「いや―、本当に済みません。僕、いらんことを言ったようですね。たまにこちらにいる日本の方で、迷惑な顔をされる方がいることはわかっているつもりなんですが、自分にとって魅力的なものと出くわすと、そんなこと忘れて、どうもついつい開けっぴろげになってしまう性格なもんで。大変失礼しました。ハハハ・・・。」
ぽかんとした顔で自分を見ている麻子に、これはまずいことをしたと真剣に思ったのか、礼一は頭を掻きながら何度も恐縮したように頭を下げるのだった。
さすがに麻子もこれにはまいっって吹き出してしまった。この人は自分にバリアーを張って、自分のイメージを崩さないということを知らない人なの?。どうしてこんなに平気で無邪気な顔をして他人と話せるの?。― 目の前にいる男に対して、麻子は心の中でいろんな疑問をぶつけていた。
しかし、何故かその一方で、目の前の男を見ている自分の気持ちが、何故か落ち着いてきて、不思議と心地よさまで感じているのだった。
「別に私は気にしてませんから、そんなに謝らないで下さい。それから私もあなたと同じ道のプロをこちらで目指しているんですが、やっとこの前こちらの大学を出たばかりなんです。だから教えられても教えるものは残念ながらありませんから。」
礼一は、おやッ。― という顔をしたが、すぐにまた人懐っこく顔を崩すと、腕を組んで周りを見回し、近くにファースト・フードのスタンドがあるのを見つけて頷いた。
「そうなんですか。じゃあ僕は教えられるものが多少はあるから、よかったらこれから・・・。そうだな、コーヒーでも買って、あそこのベンチで聞いてみませんか。」
ハントするにしては安っぽいな。― と思いつつ、麻子は悪い気はしなかった。
礼一はアメリカに来て3年になるらしかった。
歳は麻子よりも二つ上で、日本の大学を卒業して、仕事の実務経験も積んで、すでに日本で建築士の資格は取っているらしかったが、麻子と同じで日本の企業にはどうも馴染めそうもないので、思い切ってアメリカの知り合いを頼ってこちらに来たということだった。
ただ、日本でプロといえる一級建築士の資格を取っていたので、アメリカに渡る際申請した労働ビザは、スポンサーもいるし、意外に簡単に取れたらしく、礼一にはアメリカ行でそれほど苦労した思いはなかったようだった。だから麻子のアメリカでのこれまでの話を聞いて、僕はあなたよりも基本的なところで苦労してない。― という礼一の謙虚な言葉に、麻子は少なからず好印象を受けたのだった。
「でも僕がアメリカに来て、この3年で学ぶことは沢山ありましたよ。企業倫理もそうだし、人間関係は勿論。それから建物を造ったり住空間を考えたりする場合、この国はまず障害者などの弱者の利便性を考えた仕様を基本にすることを、ずっと昔から義務付けてるよね。それって凄く大事なことだと思うんだ。日本人はまだまだ考えなければいけないことが沢山あることが、こっちに来てみて初めてわかったよ。君は6年もこちらの大学で学んだのだから、そういった意味では、僕は君の知識には遠く及ばないと思う。」
初対面の麻子を前に、礼一は大海の向こうにある、未知の世界に想いを廻らす少年が持つような輝いた目で、じっと麻子を見つめて話すのだった。
アメリカに憧れてやって来た、ミーハー的な男じゃないことは確かね。悪くないかも。― 自分の中で、この男に対する興味が、少しず首をもたげてくるのだった。
この頃麻子は、通っていた大学のあるウエストウッド地区に住んでいた。
ウエストウッドはロス・エンジェルスのダウンタウンから西へ16キロにある地区で、有名なサンタモニカ・ビーチはさらに西の目と鼻の先にある。またビバリー・ヒルズのお膝元というにはぴったりの、沢山の有名なレストランやブティックなどがあるセンチュリー・シティー。ここは、ダウンタウンが近年多くの移民者やメキシカンらが幅をきかすようになってから、それに嫌気がさした白人層がダウンタウンを捨て、新しいビジネスの拠点として築いた街だが、ウエストウッドから見ればすぐ東隣に広がっている。そういうわけで、麻子が住んでいたこの一帯は、ロス・エンジェルスでもとりわけ明るい、陽のあたる地区といってよかった。
そのウエストウッドのシェルビー・アベニューのコンドミニアムの部屋を、麻子はアメリカに来た当初、大学の生協のメッセージ・ボードに張り出してあった、シェア・メイト募集の広告で見つけた。
部屋のオーナーは大手の家具メーカーの役職に就いている、一度離婚歴のあるユダヤ系の中年女性だが、このコンドには麻子と同じ大学に通う娘が住んでいて、娘の方がシェア・メイトを募集していたのだった。しかしこのオーナーは職場に近いウエスト・ハリウッドにもう一軒家を持っており、二人はどちらかというとそちらの方に居ることの方が多かった。だからウエストウッドのコンドは空けがちなため、麻子はシェア・メイトというよりもむしろ、お金を払ってくれる留守番役といった方がよかった。
麻子はここに何の問題も起こさず6年間も住み続けたが、全て揃った非常に恵まれた環境だったことはいうまでもないだろう。
そのウエストウッドの麻子の元へ、礼一があしげく通うようになるのに時間は掛からなかった。
この頃の礼一は、ダウンタウンから北東に15キロばかり行ったパサディナ地区に住んでいた。
勿論日本で持っていた一級建築士という肩書きは、アメリカではただの紙切れ同然に等しく。もう一度アメリカの大学でも出て、アメリカのライセンスでも取れば話は変わってくるが、それをしていない以上、実は礼一の立場もそれほど良いとは言えなかったし、アメリカの知り合いの会社から出ている給料も知れていたが、日本での蓄えが少しばかりあったために、礼一はアメリカに来て車も持っていたし、生活には少しは余裕があった。
礼一が訪ねてくると、麻子はそれまで自分が行きたいと思っていた郊外への遠出をよくねだった。麻子のそれまでの足といえば自転車で、ハリウッドやサンタモニカ・ビーチ、ちょっと無理をすればダウン・タウンやレドンド・ビーチ位までは行けたが、それでも行動範囲は限られていた。そういった意味では礼一の出現は、それまでの麻子の生活を一変させていた。
ただ、それまで長い間厳しい生活を強いられてきた麻子だから、細かいことへの配慮は怠らなかった。二人で出かける時には必ず麻子の手弁当持参だったし、その日の夕食は必ず麻子が作って礼一を喜ばせた。
そうして2ヶ月もしない内に、二人の距離はどんどん縮まっていったのだった。
そして、二人が出会って3ヶ月目に入った時、一緒に住まないか。― そう切り出してきたのは礼一だった。
「残念ながら、僕はアメリカに来て、まだ自分の生きていく道を見つけ出していない。ちゃんとしたアーキテクチャーになるには、やはりきちんとこちらの大学に通って、デグリーを取らないと難しいだろう。そう考えると将来に少し不安もあるけれど、君と同じインテリア・デザインや店舗設計でなら、すでにもうこっちで多少の実績は上げてきた。君にこれからうまく仕事がみつかれば、ライバルとして競っていかなければならなくなるけど、近くに刺激になる人がいるっていうのも良いだろうしね。・・・いや、勿論これは無理にとは言ってないんだよ・・・。」
レドンド・ビーチの、どちらかというと観光目的に作られたような桟橋の上にある洒落たカフェで、麻子はニヤニヤしながら礼一の話を聞いていた。
いずれこういう話をしてくるのではないか。― という、そんな予感を麻子は持っていた。だから珍しく礼一が緊張した面持ちで話し始めた時、麻子に気持ちの準備が出来ていたせいかもしれないが、礼一のその照れながらも、いつものように何とか相手に自分の気持ちをうまく伝えようとする意地らしくしたむきな態度が、麻子には物凄くいとおしく可愛く感じられるのだった。
この人の心臓は、今、オーバー・ヒート寸前なんだろうな。フフフ・・・。― 審判を待ってうつむく受刑者のように、少し蒼ざめて見える礼一の顔を麻子は覗き込んだ。そして、麻子はテーブルに置かれたグラスに出来た結露の水滴をひとさし指に付けると、礼一の目の前で、テーブルに、「OK」と書いたのだった。
「そう。・・・そうか。いいのか。いやー、安心した。もしだめって言われたら、これから先、アメリカで暮らして行く自信も目的もなくす位落ち込むとこだった。」
それからしばらくして、麻子は礼一と暮らす部屋探しを始めた。
礼一の暮らしていたパサディナの部屋を、そのまま借り続ければいいと礼一は言ったが、パサディナはカリフォルニアの地震の巣窟といわれている位活断層の多い所で、麻子は大学でそれを学んでいたので、最初からそんな場所にある建物に住む気にはなれなかった。
それでいっそのこと、まったく違った雰囲気の場所を探して、新しい生活をスタートさせようということになったのだが、意外と二人が考えるような、カリフォルニアの雰囲気に合った場所というのは限られているもので、ダウン・タウンを中心にして北や東の内陸部に行くと、どこも似通った通りと似通った住宅地ばかりで、おまけに治安が良いという条件を付けると、どうしても内陸部には住む気にはなれなかった。
それで結局二人が決めたのは、麻子が住んでいたウエストウッドから7キロしか離れていないヴェニスというところだった。ヴェニスはサンタモニカのすぐ南の地区で、マリーン・デル・レイという大きなヨットハーバーも近くにあり、南カリフォルニアの明るい雰囲気がぴったり当てはまる。そんな場所だった。
「こんな近くだったら、最初から海沿いの物件ばかり当たればよかった。」
1週間も車で駈けずり回された礼一はぶつくさ言っていたが、やっと落ち着ける自分の城が持てた気分になれた麻子は、新しい生活に胸を躍らせていた。
別離
麻子が想像していた以上に、礼一との生活は楽しいものだった。
礼一は島根県の西部、石見地方の生まれの人で、本人曰く、石見の男はいなかもんだけれど、心根は本当に優しい。― と、自分で言うように、少し真っ正直なところがありすぎるが、ナイーブで他人に随分気を使う性格だった。
アメリカに来て3年間も自炊生活、自立生活をきちんと守り続けてきたせいか、ほとんど手の掛からない男で、何でも自分でこなそうとするし、食事の後片付けやそうじも、麻子が言わなくても自分からしてくれた。それは、これからしなくてはならないことが沢山ある麻子にとって、気持ちを楽にしてくれるものだった。
そして、それまで自転車での生活圏しか持たなかった麻子のために、週末には必ず、麻子が行って見たいと思っていた北のサンタバーバラや南のサンディエゴまでドライブに連れ出してくてた。
麻子も礼一も、この先アメリカでどんな運命が待っているのか想像もつかなかったが、二人で暮らし始めたことで、麻子は間違いなく、この先の人生を頑張って生きていけそうな気分になっていた。
「礼一。二人ともこの国でもし成功することができたら、きっとそれはあなたのおかげだと思うわ。それ位、今の私の気持ちは満たされているんですもの。」
一緒に暮らし始めた当初、礼一に何度も言ったこの麻子の気持ちに、決して偽りはなかった。
二人の生活がそうしてスタートして間もなく、麻子の仕事探しにも明るい日差しが差し込む気配が見えようとしていた。
礼一は、麻子が書いた作品の何点かを必ず持ち歩いていて、取引先や、紹介してもらったデザインオフィースに、事あるごとに売り込んでくれていたのだが、その内の一社が興味を示してくれたのだった。
そうなると白人社会の場合、多少の張ったりをかませてでも、自分からアピールして売り込まないと話は決まらないもので、ここから先は本人の行動力とやる気が重要になってくるのだが、麻子は長年アメリカにいてそういう話は何度も耳にしてきたし、何度も見てきたので、行動に打って出るのは早かった。次の日の朝には、アポイントも取らず、相手の会社の前で担当者が出勤してくるのを待っていたのだから、これには礼一も舌を巻いた。
アメリカの大学を出たての日本人の若いデザイナーで、日本でもアメリカでも実務経験はないが、ライトニングのプランやインテリア、ガーデニングのデザインセンスには素晴らしいものがある。― 礼一はそういって売り込んでくれたらしかったが、その担当者は麻子のデザイン画を見て、日本風な趣を取り入れたデザインに興味を持ってくれていたらしく、盆栽、生け花、日本庭園などがブームになりつつあるアメリカで、ウエスタンスタイルのデザイナーとはまったく趣を異としたタイプのデザインであれば、きっと良いセールスポイントになるといってくれたばかりか、特異な分野の仕事を手がけるということにすれば、移民局の審査でも永住権、あるいは就労ビザの申請を行っても問題なく通るだろうとも言ってくれたのだった。
麻子がこの会社の担当者に会った日の夕方には、正式にこの会社から、スポンサーとしてまず就労ビザを取るためのバックアップをするからという約束の電話が入った。
翌日、麻子は移民局に出向き、出していた永住権申請を取り下げた。担当官は意外な顔をしたが、簡単な説明をすると納得したようで、「グッド・ラック」そう言って励ましてくれたのだった。
礼一は、僕の婚約者ということにすれば、日本に帰国しなくても、このままアメリカに居続けることができるだろうに・・・。― そう言ったが、麻子は一度日本に帰国して、きちんと就労ビザを取ることを選んだのだった。きちんとした就労ビザさえ持って実績さえ積んでいけば、将来きっと自力で永住権を取ることが可能になる。自分はそういう生き方を望んでいたはずだ。― 麻子はそう考えた。もしかしたら礼一が一生を共にするパートナーであっても、人を当てにする安易な生き方をすれば、この国では勝ち残っていけないことを麻子はしっていたから、あえてそうしたとも言える。。
「今度君がアメリカに帰って来る時は、もう一回り強くて輝いている人になっているかもしれないね。今以上に、もっと大きな可能性を持てるんだからね。」
礼一は空港に送ってきて、ぽつりとそう言った。
「何しんみりした顔で言ってんの。私は必ずあなたのところに帰って来ますから。1ヶ月半か2ヶ月、しっかり留守番お願いね。」
礼一の落ち込みようが少し気になったが、麻子は何度も手を振ってゲートの中に消えていった。
6年半ぶりの日本は、第一次オイルショックと第二次オイルショックのはざまにあった。原油価格の高騰が、日本経済を打ちのめしていた時期だった。
しかし、そういったこと全てが麻子には見えていなかった。将来の夢や希望は全て海の向こうにあった。その海の向こうに帰ることしか頭にはなかった。
麻子が日本にいたのは、結局1ヶ月半だった。
アメリカの大学のデグリーと、受け入れ先の会社のスポンサー証明書がそろっていたのだから、大阪のアメリカ総領事館に申請した就労ビザの発給は意外と早かった。
金沢の実家の両親は、本当に何年振りかに帰国した娘に、もっと長く居て欲しい様子だったが、麻子は帰国した翌日からすでに、これからの計画ばかり考えては、それを伝えるためにこまめに礼一に電話をしたり、やっと念願かなってアメリカで働けるようになった喜びを口にするばかりで、親の気持ちなどまったく気にする様子もなく、もう勝手にしろ。― 最後にはそういって父親を怒らせる始末だった。
短い日本での滞在期間中に、麻子がしたことといえば、ビザ取得で大阪と金沢を行き来した以外は殆ど家の中に居て、本屋で買ってきた専門書と専門の雑誌を読んで過ごすことくらいだった。そんな訳だから、帰国したら会おうと思っていた友達に挨拶をしていないことに気づいたのも、出発間際になってからだった。
そんな、本人に言わせれば、あわただしい滞在。― を終え、飛行機がアメリカに到着して、入国審査の係官に就労ビザの押されたパスポートを差し出して、麻子は、やっと自分がこの国で一人立ちして生きていけるところまで来た。― としみじみと実感していた。
「女の身であっても、実力さえあれば這い上がっていける。アメリカはそんな国だから、私は日本を捨てて、この国の可能性に賭けた。7年もかかったけれど、やっとここまで来れたんだわ。」
感無量な気分になって、うつむいて少し涙を溜めている麻子を見て、係官は、どうかしたのか。― と声を掛けてくれた。
「いいえ、何でもないんですよ。すみません・・・。」
「・・・でも。・・・実は私の父は長年学校の教師をしていて、物凄く教育熱心な反面、物凄く寡黙な人なんですが、オレはタダでは絶対口を開いて人にものを教えない。― というのが口癖なんです。その父が、私が日本を発つ前に1時間も私に付きまとって、ああでもない、こうでもないと、いろいろ口をはさむものだから、それを思い出して・・・。」
日本の女性にしては珍しく、軽いジョークの言える麻子に、係官は大笑いをしてパスポートを返してよこしたが、涙を拭おうともせず、麻子もつられて笑い出していた。
そうしてアメリカに戻って来た麻子は、その翌週から張り切って仕事に出かけたのだった。
新しい職場は、ビバリイ・ヒルズとウエスト・ハリウッドの中間のサンタモニカ・ブルーバード沿いにあった。
礼一は毎朝サンタモニカ・フリーウェーを使ってダウンタウンの職場に通っていたが、麻子の職場はそれに比べれば近いので、ウエスト・LAからセンチュリー・シティーを通って職場に通った。
通勤に使う車は日本を出る前に礼一に頼んで、中古だが買っておいてもらった。父親が就職祝いだといってくれたお金を、そのまま使わせてもらって買ったのだった。
ライセンスの方はアメリカに来てすぐに取っていた。当時のカルフォルニアでは試験料は10ドル位のもので、実地テストに使う車を自分で持ち込めば、簡単に試験は受けられた。日本ですでに免許を所持していた麻子には簡単なことだった。
毎朝夕の通勤途中、センチュリー・シティーの街中を車で通りがかると、麻子には必ず思い出すことがあった。
それは麻子がまだアメリカに来たてだった頃、スーツをビッシと着込んだ白人女性が、ブロンズのヘアーをなびかせながら、オープンカーで颯爽と職場へ通う姿を、センチュリー・シティーで何度となく見て憧れたことだった。いつか私もあんな風にして仕事に行くんだ。この国で成功した証があの姿だ。― と、ずっと思い続けてきたのだった。
「この車はまだ比べ物にならないけれど、あと何年かしたら、私もきっとオープンカーに乗ってこの街を走るわ。」
この国で大手を振って生きていく条件が揃った以上、あとは上に上がっていくだけだと思っていた。
それからというもの、麻子は仕事を休むもともなく、着実に与えられた仕事をこなし、少しづつ信用と実績を築いていった。白人が多いオフィースの雰囲気や、専門用語を英語でやり取りすることに慣れるのも、それほど時間を必要としなかった。
そして、そんな充実した毎日が3ケ月ほど続いた頃、職場から帰って来た礼一が、面白そうなデザイン・コンペの話を持ち出してきた。
それは、ある大手のジェネラル・コンストラクションが進めている、郊外の大型ショッピング・モール内のエントランス・ホールの活用法とデザインのコンペで、応募条件に関しては特になしというものだった。
「麻子。僕はこれに応募してみようと思う。僕もこの国に来た以上は、このままで終わりたくはない。どんな小さなチャンスだって、これからは挑戦してみようと思う。勿論君のオフィースでも話は出ていると思うが・・・。」
麻子が勤めている会社は決して小さくはない。それだけ大きなプランのコンペなら、なんだかの話が出てきてもおかしくはないのに、少なくても麻子の耳には入っていなかった。もしかしたら自分が駆け出しのペーペーだから無視されたのかもしれない。― 麻子はそう思わざるを得なかった。
ただそうなると、負けず嫌いの麻子という女性の闘争心は急に燃え上がるのだった。
「応募条件がないっていうことは、個人的に応募してかまわないってことでしょ。だったら勿論やるわ。」
「そうだろうな。きっとそうすると思った。でもあまり時間はないぞ。締め切りまであと1月ないらしいから。」
麻子と礼一はお互いに見つめあった。同じ道を目指すのだから、いつかは相手をライバルとして見なければならない日がくるだろう。― と話してきたが、やっとその時が来たとお互いが感じたのだった。
しかし、お互いの実力を試すこのコンペが、実は哀しいドラマを生み出そうとは、この時の二人が知る由もなかった。
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